1アハシュエロスすなわちインドからエチオピヤまで百二十七州を治めたアハシュエロスの世、 2アハシュエロス王が首都スサで、その国の位に座していたころ、 3その治世の第三年に、彼はその大臣および侍臣たちのために酒宴を設けた。ペルシャとメデアの将軍および貴族ならびに諸州の大臣たちがその前にいた。 4その時、王はその盛んな国の富と、その王威の輝きと、はなやかさを示して多くの日を重ね、百八十日に及んだ。5これらの日が終った時、王は王の宮殿の園の庭で、首都スサにいる大小のすべての民のために七日の間、酒宴を設けた。 6そこには白綿布の垂幕と青色のとばりとがあって、紫色の細布のひもで銀の輪および大理石の柱につながれていた。また長いすは金銀で作られ、石膏と大理石と真珠貝および宝石の切りはめ細工の床の上に置かれていた。 7酒は金の杯で賜わり、その杯はそれぞれ違ったもので、王の大きな度量にふさわしく、王の用いる酒を惜しみなく賜わった。 8その飲むことは法にかない、だれもしいられることはなかった。これは王が人々におのおの自分の好むようにさせよと宮廷のすべての役人に命じておいたからである。

エステル記をこれから学び始めるとき、歴史背景を知ることが助けになると思います。エステル記は紀元前483年から紀元前473年の間に起こった可能性が高い出来事を記録しています。ユダヤ人のバビロン捕囚の後に起こった事の話です。ペルシャが国々を統治しており、スサはペルシャ帝国の首都でした。

ユダヤ人の一部の人々は、自分たちの生活をかなり自由に送る事が出来たエルサレムに帰還することを許されました。モルデカイとエステルの様な、他のユダヤ人はスサに残り、捕囚後の外国人として住んでいました。ペルシャ帝国での少数民族として時にはユダヤ人は疑いの目で見られ攻撃される恐れに晒されていました。

地図にある通り、王であるクセルクセス一世は127の州を治めていました。実に巨大な王国でした。まさにすべてのユダヤ人がペルシャ帝国の境界内に住んでいたのです。

このペルシャの王は、いわゆる「富を身にまとう」のが好きで時折、周りにそれを見せびらかしました。今でも高級な車や宝石を身につけて、自分の富を自慢する人がいますが、この王は自分の巨額の富を見せびらかそうとしたのです。180日連続で、やっとお披露目の最終日が終了した時(周りの人々は、神様、やっと終わって感謝しますと思った事でしょう)、高貴な友人たちにさらに7日間の宴会を催しました。好きなだけ酒を飲んでいいことを許可しました。宴会が始まると、酔っ払いの宴となったことでしょう。

王には、高い地位に挙げられた多くの顧問や助言者がいました。ペルシャ帝国時代の文化ではどのように決断が下されたかを理解することが大切です。当時は異教徒の文化で、不道徳や罪や悪行が横行していました。

神様を否定する国で行われている様な行為を受諾する文化、そんな国アメリカに私たちは住んでいます。ですから昨今、エステル記のような書を読むことは実に大切です。ここで、いくつかの質問事項を挙げておきます。

―政府によって自分の権利が取り上げられてしまったらどう対応すべきか。

―ますます異教徒されていく文化の中でどのように生きるべきか?

―現在、エステルからどのような道標や励ましをもらい、学ぶべきか。

主よ、エステル記で学ぶことが、今日私たちにも当てはまる事を感謝します。私の心の目を開けて、私がこの書物に記してある真実が見える様にして下さい。