12こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 13そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。 14実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 15今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

昔から親しまわれているピノキオのお話をここでしましょう。ピノキオは木工職人のゼペットによって作られました。操るための紐を引っ張って踊らせると、ある種の生命を得たのです。本当の命ではなく、「動作」つまり、生きている証拠のごく一部でした。本当の男の子になりたくて、ある日魔法で、本当の生きている男の子になりました。魔法がかかった木でできているピノキオは、走ったり遊んだりすることができました。うわべではピノキオの「友人達」がにサーカスに行って、学校を一日サボるように話しかけました。ピノキオは、自分のお父さんが学校をサボって欲しくないと思っていたことを知っていたので、誤ったことだと分かっていましたが、サボってしまいました。サーカスは思っていた所とは違い、悪いサーカスリーダーの奴隷の様になってしまいました。サーカスにおびき寄せられ、捕えられてしまったのです。最後にはピノキオはサーカスを抜け出し、ゼペットの元に戻りました。そしてピノキオは本当の男の子になりました。

この世で今日、これさえあれば

「これさえあれば自由になる」と約束するものについて聞くのは、実に興味深いことです。経済的自立、良い評判、地位や力、自分の生活をコントロールする、自分に有利になる人とだけ付き合う、一見安定していると思われる物に自分の周りを固める、休暇や旅行を頻繁にする(現実から逃れるため)といった事が自由を約束する例に挙げられます。

この様な自由を約束する事をこの世の霊的な悪は、魅惑的で、「満たされた人生」「永続的な遺産」だと約束しようとします。しかしこの様なことは全て虚無なのです。ピノキオがサーカスに行って捕えられたように、これらのことによってあなたが罪を犯し、あなたを束縛する事があります。どうしてでしょうか?自己満足の追求が目的だからです。私たちは自分で自分を満足させることはできません。

神の自由、今日、明日、そして永遠に活力のある人生を送ることは、ただ一人の人によってのみ見出されるのです。私たちの主であり救い主であられるイエスキリストによってのみです。罪によって、私たちが置かれているメチャクチャな状態を隠すおおいが存在すること、それを取り除くことに同意しないといけません。同意すれば、イエス様を信頼し、後につき、従うのです。そうすればイエス様は私たちの心の中に生ける聖霊を与えてくださいます。

そうすれば私たちの生き方の中で、神様のみ手を見ることができます。神はご自身が犠牲を払い、見返りを求めない愛を与え、真実の方であり、神のみ手は実に力があります。私たちは、神様のみ子であるイエス様の様になる為、生まれ変わるのです。

ピノキオが本当の男の子になった様に、私たちも神様の栄光を照らす、霊的な灯台と生まれ変わるのです。神様の栄光のために私たちを用いられるので、キリストに似た者となり、そのような私たちの中で輝く、この霊的な光を周りの人もしっかりと見る事が出来ます。私たちはイエスキリストが主であると大胆に宣言するのです。

父よ、イエスキリストによってあなたが下さった自由に感謝します。あなたはこの世が与える様にはお与えになりません。この世は私たちに嘘をつき、約束の反故で私たちを捕えます。神様のみ言葉である聖書は真実です。そして、どのような苦しみや試練が待ち受けていても、自分が変わり、真の自由の為あなたに従います。イエス様、あなたに全身全霊を捧げます。